小学校中学年から始まり、大抵の人は高校卒業程度までは勉強する歴史。

この記事を書いている時期がちょうどお盆という事もあり、戦争に関する映像資料をYoutubeで眺めていたのですが、一般的に行われている歴史の教育にふと疑問を感じたので残しておこうと思いました。

補足しておきますが、歴史教育と言うと外交問題でたびたび話題に上がるようなモノを想像される方もいるかもしれませんが、ここで私がフォーカスしているのは学生時代に行われる日本史や世界史といった教育の事です。

史実しか覚えていない

歴史の勉強と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?

日本史であれば「いい国(1192年)作ろう鎌倉幕府」とか「明智光秀が主君の織田信長に反旗を翻した本能寺の変」。

世界史であれば「18世紀にフランス革命」「18世紀から19世紀にかけて産業革命」。

こんな感じで歴史の結果、つまり史実しか思い浮かばないのではないでしょうか。

ビスマルクの言葉

ここで偉人の言葉を拝借します。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

初代ドイツ帝国宰相 オットー・フォン・ビスマルク

さて、ここで考えたいのがビスマルクの残した上記の言葉の『歴史』は何を指すのか、という事です。

本当に大切な事とは

前々項で「史実しか」と強調したように、歴史上の出来事を名詞として覚えることに大した意味はありません。

ビスマルクの言葉の中で、『歴史』と対比されているのが『経験』です。

『経験』とは、自身がこれまでの人生の中で行った選択と結果が集積したモノであり、さらにはその選択を行うにあたっての理由、すなわち一連のプロセスという意味を含んでいます。

つまり、ビスマルクの言う「歴史に学ぶ」というのは、出来事とその結果だけ(つまり名詞)ではなく、なぜその出来事が起き、その出来事がなぜそのような結果をもたらしたのかを学ぶという事になります。

『経験』が自身の頭の中にあるのに対し、『歴史』は他人の『経験』であるために客観的にならざるを得ません。

その為に歴史上の出来事を名詞として覚えることが「歴史に学ぶ」コトとして認識されてしまうのではないでしょうか。

日本人に植え付けられた歴史認識

本題とは逸れますが、日本人の歴史認識として明らかに議論の余地がある史実があります。

それが、戦争の歴史です。

太平洋戦争あるいは大東亜戦争での敗戦を機に、日本はGHQの占領下に置かれ、ブラッド・ラショナル論のもと主にアメリカの下で戦後処理が行われ、日本の体制が根本から変わりました。

この時に出来上がった戦後教育というモノが今日まで続き、戦後教育を受けた・戦争を経験していない人口の方が多い時代に突入しています。

戦後教育の場では「太平洋戦争は日本が起こした悲劇」という認識だけが植え付けられており、その悲劇を生んだ理由が詳しく語られることはありません。

これが「歴史に学ぶ」ことでしょうか?

本来教育の現場では、明治維新からの戦争の歴史をもっと詳細に描写し、世界にとって悲劇となった第二次世界大戦の経緯も細かく説明し、そのうえで戦争をしなければいけない理由、そして戦争によって失われるモノ、あるいは戦争を回避する為に行うべきコトを教えるべきではないでしょうか。

最後に念のため補足しておきますが、私は国家間の争いを武力による解決に求めているわけではありません。

武力衝突は無いに越したことは無く、回避できるのならば回避されるべきで、やむを得ない場合に起こってしまうモノ、というのが私の戦争に対する認識です。

本題から逸れた割に長くなってしまいましたが、こうした戦争の歴史認識への興味がある方にはケント・ギルバートさんと百田尚樹さんの対談形式で綴られている『いい加減に目を覚まさんかい、日本人!』という書籍をおススメします。

主題は隣国との付き合い方に関するモノですが、それらを述べるうえで必要な知識も含まれているため、とても刺激的な内容となっています。

まとめ

「歴史に学ぶ」という事は、単に年表上の出来事と結果を覚えるのではなく、なぜその出来事が起きたのかという理由と、なぜその結末に至ったのかというプロセスを学ぶ事である。

そう考えると、歴史というのは実に奥の深い膨大な量の学問であることが判明します。

そしてこれまで勉強してきた歴史が、社会に出てからは何の役にも立たないという事も。

そこに求められるのが教養程度だとしても、実学として歴史を学ぶべきなのではないでしょうか。

以上です。

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