今日で震災から7年です。

このブログを開設して初めての3月11日なので、あの日のことを振り返ってみます。

震災当日の状況

高校の卒業式を終え、国公立大学の前期合格発表も終えて大学でも陸上を続けるべく、後輩たちの部活に参加していました。

震災当日は前日の練習で筋肉痛になっていたこともあり、二駅離れた高校にはいかず、自宅にいました。

私の家は過去の三陸大津波で高台移転した家です。

筋肉痛が激しかったこともあり、その日は朝からオンラインゲームにふけっていました。

午後2時46分

今でも「我ながらよく覚えているなぁ」と思いますが、花男ファイナルの録画を見ながら、赤目基地でWIZのレベリングをしていました(RED STONE)。

初動はそこまで大きくなかったので、「あー揺れてるなー」ぐらいに感じていました。

2~3秒くらいして、「あ、これヤバそう」と思い普通のテレビに切り替えてみると緊急地震速報が表示されていました。

この時の映像はほんとはよく覚えていません。

さすがに大きな揺れが続いていたので、停電を心配してデスクトップの電源を落とそうとしたところで停電になりました。

過去の爆弾低気圧などで停電時には「水道も止まる」と覚えていたので、停電後すぐに空いているペットボトルとバケツに水を汲みました。

その後、部屋着から外出できる格好に着替え、大学への引っ越しの為に父親が購入したETCカードを棚が倒れて散らかった書類の山から探し出しました。

ここまででどれくらい時間がたっていたのかはわかりませんが、10分もしないうちにそれだけ動ける根性が良かったです。

私の実家からは海が直線で50メートル先くらいに見えるので、海の様子を妹と祖母と眺めていました。

防災無線が機能していたかも覚えていませんが、大津波警報が出されていたことはなぜか知っていました。

海の様子はしばらく穏やかだったので、その間に災害用伝言版に私含め3人の安否を記載しました。

津波の襲来

しばらくして穏やかだった海の水面がゆっくりと上昇し始めました。

津波に関する教育は小さい頃から受けていたので、「海面がどんどん上昇してくる」、これが津波なんだと思いました。

岸壁を海面が越えたところで波になりました。

海沿いに合った漁師小屋がゆっくりと水面に浮かび、ひとつひとつ波にのまれていきました。

しばらく波の様子を眺めていましたが、堤防を越えたところで「これはさすがにマズい」と思い、裏の山の上にある公園に逃げる事にしました。

妹も祖母も半ば腰が抜けている状態だったので、声をかけたり手をひいたりとなんとか玄関まで連れ出しました。

玄関の扉を開き、真っ先に見えたのが目の前を流されていく船でした。

私の実家の30メートルほど先が崖になっていましたが、床下浸水まであと数メートルというところまで波が来ていたのです。

避難生活

裏山の公園で見た光景は、自分の生まれた町が波に飲まれていく、よくテレビで流れている映像と変わらないので省略します。

波が落ち着いた後、高台にある中学校の体育館へと非難しました。

外部との通信は完全に遮断されているため、その体育館にいた人も含め、私の妹の同級生26人が行方不明とラジオから聞こえてきたときには驚きました。

避難者の受け入れや確認などが落ち着いたところで、駐在所のお巡りさんから「災害対策マニュアル」に基づく今後の流れが話されました。

「3日間は外部からの救援はないと考えてください。」

この一文だけは覚えています。驚きましたね。

もともと自給自足で暮らしてきた方が多い地域だからか、それとも子供たちを心配させないためか、その言葉に反応する大人はいませんでした。

当日は私の同級生も数人体育館に避難しに来ていたので、夜中にはモンハンをしていたような記憶があります。

翌6時に就寝し、7時に起きて気付いたことが小学生以下ちびっこたちが騒がないことです。

あまりにもシリアスな状況だとそうなってしまうのかもしれません。

子供たちが校庭で騒ぎ出すようになったのは2日ほど後のことです。

それから3日間ほど、体育館で過ごしましたが、今でも腑に落ちないのがメディアのヘリコプターです。

その燃料の使い道は日本中へ情報を届ける為だけのものでしょうか。

救援物資を届ける為のものであって欲しいと思うばかりでした。

撮影機材だけを積んで救援物資を待つ人の上を飛んだ方の気持ちを私は未だに理解することが出来ません。

避難生活の後

13日の夜に盛岡へ単身赴任していた父親がどういった経緯か避難所に姿を現しました。

当時、認可された車両でなければ沿岸地区へは来ることもできませんでした。

復興に関する自衛隊などの車両が優先されていたためです。

翌日は自宅へ戻り、給水車から給水を受けている中で「女川原発で水素爆発が起こった」「屋内へ退避」という情報が入りました。

結果的には女川ではなく福島第一原発でしたが、震災から数日経った後でもそれほど情報が錯綜していました。

その後、父親の住むアパートへ家族全員で1週間過ごしました。

盛岡でのガソリンの供給を受けることが出来、落ち着いてきたのを見計らって自宅に帰りました。

そこからしばらく自宅での電気水道無しの生活を凌ぎ、なんだかんだありながらも4月に入った頃にライフラインが復旧しました。

災害時はガス漏れや爆発の危険性もありますが、やはりプロパンガスが最強ですね。

今現在思うこと

東京オリンピックの準備が相当な勢いで進められていますが、その勢いは被災地の遅々として進まない復興の上に成り立っています。

東京オリンピックを心底応援することはおそらくできないでしょう。

日本で2回目という歴史的なイベントではありますが、被災した人のなかで私のようなひねくれものには良くない思い出になるかもしれません。

そうしたことも含め、あの津波を目の当たりにしたなかで私一人だけでも一生心に刻んで生きます。

スポンサーリンク