東日本大震災から10年

10年前の今頃、私は避難所となった中学校の体育館の中にいました。

本震の後もひたすら続く余震の度にどこからか悲鳴が聞こえてくる、そんな状態でした。

「災害マニュアルに従って、これから3日間は外からの支援が無いモノと思ってください。」

地元の駐在所に勤めるお巡りさんから聞いた言葉です。

この言葉ほどの衝撃を受けた言葉はまだありません。

東日本大震災で家族や知人を亡くされた方には、心からお悔やみ申し上げます。

不幸中の幸い、と言うべきか、私は親しい人を失うことはありませんでした。

ただし、人こそ失わなかったものの、たくさんのモノを失いました。

そして同じくらい、たくさんのモノを得ました。

さて、東日本大震災を振り返るとどうしても感傷的になってしまい、いつも散文になってしまうので、少しまとまりのあるお話をします。

子供が騒いでいるという『幸せ』

先述したように、私は東日本大震災の直後から3日間ほどを避難所で過ごしました。

私だけかもしれませんが、避難所ではとてつもない緊張感をもって過ごしていました。

3日間のうちトイレに行ったのは1回だけ、と言えばどれだけ脳が身体に対して制限をかけたのかが分かるのではないでしょうか。

そんな中、3日目にしてやっと気づいたことがありました。

子供たちが中学校の校庭で走り回って遊んでいたんです。

私の地元は港町ですから、避難所の中には多くの子供たちがいました。いたハズなんです。

小学生ぐらいの子供たちが一堂に会すれば、騒がしくなるのは必至。

しかし、実際に騒ぎ始めたのは震災から3日目です。

「本当に大変な状況では、いつもはうるさいハズの子供たちでさえ黙り込むのか。」

冒頭で紹介したお巡りさんの言葉と並んで、衝撃を受けた経験でした。

この経験と結びついたのが、小中学生の時に読んだ沖縄戦を描いた漫画です。

その漫画の中では、防空壕に逃げ込んだ母親がぐずる子供の泣き声を米兵に聞かれまいと胸に圧しつけて窒息死させてしまう、という描写がありました。

本当に大変な時、子供たちの仕事でもある『騒ぐ』コトが許されなくなるんです。

この経験から、外出先などで子供たちが騒いでいるのを見ると、他人の迷惑になっていたとしても、「平和だなぁ」と感じずにはいられません。

今もなお感じる『罪悪感』

東日本大震災後、実家で過ごすのは帰省の時だけ。

東日本大震災後、沿岸地域に住んだ事はありません。

今は仙台に住んでいますが、「被災地域に住んでいる」という実感はありません。

そんな私が今もなお感じているのは、東日本大震災後も被災した地域に住んでいる家族や友人たちへの申し訳なさ、震災とは縁の少ない場所で暮らしているという『罪悪感』です。

これから先、地元に帰ることになったとしてもこの『罪悪感』が消えることは無いでしょう。

だって、本当に大変な、必要とされる(かもしれなかった)時期に地元にいられなかったんですから。

だから、どこかでこの『罪悪感』すら払拭できるような大きなことをやりたい、それが私の夢です。

最後に

東日本大震災の後、熊本や胆振などでも大きな地震が発生しました。

自然災害に範囲を広げれば、豪雨災害は毎年の様に日本各地を襲っています。

そんな中にあって、その映像をテレビで眺める自分に怖くなるんです。

「きっと東日本大震災の時に、西日本の人たちはこうやってテレビで見ていたんだろう」

「そして、今は自分があの時の西日本の人たちと同じ立場にいる」

「テレビに映っている地域では、東日本大震災の時に自分が経験した事と同じような思いをしている」

「それなのに、安全圏からのモノの見方をしている自分がいる」

東日本大震災を経験したからといって、熊本や胆振の人たちの気持ちを理解することは出来ません。

だって、東日本大震災で共に被災したと言っても、誰一人失っていない私は家族・知人を失った方の気持ちを完全に理解することは出来ないんですから。

人生って難しいです。

懺悔の様になってしまいましたね。

以上です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください